ラノベやアニメ、映画、TCGなど。
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 先日こんなことがありました。 図書室のコピー室でコピーしようとしたら、機器の中にコピーカードが残されていました。おそらく誰かが抜き忘れていったのでしょう。とりあえずそのコピーカードを抜き取って見てみると、名前の欄に僕の所属する専修名が書かれていました。つまり専修の先生かTAが忘れていったのでしょう。テレホンカード同様よくある話です。 で、ここからが本題。僕はそのカードをどうしたでしょうか。 1、ネコババした 2、専修の研究室まで届けた 3、図書室の職員に渡した 4、そのまま放置した 5、捨てた カードの残り度数は450はありましたので金額にして約4.500円です。自分も聖人ではありませんから棚ぼたは嬉しいので4、5はありえないですし、落とし主の所在が分かるので3もなし。 正解は2。 とりあえず貰うにしろ返すにしろ所持しておこうと抜いたのですが、そこから色々と考えました。 ネコババしようと思えば簡単にできます。価値として5000円もの金額は充分大金です。ラッキーだと言えるでしょう。 ただここで僕が悩んだのは「落とし主が分かっ」たこと。 仮に名前がなく、誰のものか分からなければ100%自分のものにしていました。 ですが、落とした人が判明している状況で、誰が損失を被るか判明しているにも関わらず自分の利益だけを考えるのは、感覚的に良心を咎めるような気がしたのです。人として徳のない行いに思えてきたわけです。 しかしそう考える一方で、たまたま落とし主が間抜けで運良く自分が利を得られるチャンスに出くわしたのだから素直に受け取ってしまえ、とも思ったのです。決して誉められたことではありませんがお金の魔力は強力です。お金で愛は買えないと言いますが、愛でもお金は買えません。脱線しましたね。 とにかく何が言いたいのかといいますと、素直に受け取るには良心に欠けるような気がする、けれどそのまま返すには惜しい額だと欲も湧いて困ったわけです。 そして悩みはそういった表面的なことだけでなく、もう少し深いところまで及んだのです。 正直に持ち主に返す行為は何の利益にもならない、ただの自己満足でしかない、偽善だ。 一方で己のものにするなんて人としての心に反する、強欲だ、持ち物が持ち主の所にあるのが自然で正しい形だ。 さて困りました。返す返さないという問題からその行為によって自分の性質まで決めかねないのではないか、という哲学的な(ある意味変態的な)思考にまで及んだのです。 結局30分ほど悩んで出した結果は「持ち主に返す」。 理由は偽善でも構わないと思ったからです。偽善がなぜ忌み嫌われるのかを考えると、それは純粋で無欲な気持ちから生まれた善意ではないからだと思います。悪ではないけど完全な善とは言い切れない。その裏に下心が透けて見えるからこそ、人は偽善を嫌うのでしょう。 ですが、僕はむしろ無欲な人間などこの世にいないと思います。たとえいたとしても数えるくらい少ないかと思います。ならばどのような善行も偽善になるし、何よりも、下心があろうとなかろうと、行為の受け手は確実に利を得られるわけです。僕がどんな自己満足野朗でもカードを届けてもらった側からすれば決して損にはならないはずです(もちろん例外もありますがこの場合は至って平凡なので平気です)。 なので僕はカードを返しました。前もっていろいろ考えていたので自己満足など露ほどにも感じられませんでしたが、持ち物が持ち主に戻る――本来あるべき姿に戻すことは善だと思い込むことで僕は自分の行為に正当性を求めました。もはや何が正しいのかさえ分からなくなるくらい考え込みましたが、たぶん、僕の行いは正しかったのではないかと今も曖昧に信じています。 PR
一応ツッコミ
えーと、とりあえずイイ歳した日本人として基本がぬけてますが…
ぐるぐる考える前に、ネコバハすると立派な犯罪ですぜ? たかが5000円程度で、場合によっては大事になるリスクおいたくないなあ おとなしく届けるのは、なにより自分のために賢明だよ
えーっと
ネコババが犯罪である云々はこのエントリーにおいてはどうでもいいことでして……。
ただ偽善とはどういうものか、自分なりに思ったことを書いただけなのです。 |
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