ラノベやアニメ、映画、TCGなど。
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 百合とは一体何なのか。 女の子同士が好き合うというのはどういう意味なのか。 かしまし小説版にあてられた僕の心に浮かんだことを稚拙ながらも書き連ねたいと思います。興味のない方は飛ばしてください。不快に思われても責任を取りかねますので(汗)。 まず、かしまし小説版は厳密にいうと百合ではないと思います。理由は簡単。三角関係にある三人が三人とも、その恋の発端は異性に対して抱いたものだからです。 はずむが女性になる前から、すでに三人の恋心は芽生えていたと思います。はずむは「昔から隣にいた心強い女の子」と「女の子然とした、正に女の子らしい女の子」に、とまりは「昔から隣にいた護るべき男の子」に、やす菜は「初めて見えた(気にかけた)男の子」に、です。ちなみにはずむが女性になってから好きという気持ちを明確に知覚する、というのは、はずむが女性になったからではなく、男性でなくなったがために初めてその違和感(胸のうちの恋心)に気付いたのです。これは一般的に、失くして初めて大切さに気付く、という類のものだと思われます(はずむととまりの関係はむしろ家族愛の感覚に近いものだと思います。近くにいるのに疎遠になることが耐えられないだけです。仮に引越しなどの正当な理由があれば二人は心残りながらも離れることになったでしょう)。 では、このかしまし小説版はどんな作品といえるのか。僕はこう考えます。「百合」という悲恋の形式を用いた恋物語、と。「百合」という言葉の性質への言及の前に、この恋物語の仕組みを説明しましょう。 この物語は三人の純愛を描いているわけですがテーマとしては「悲恋」が話の核になっていると思われます。実らない恋、それは読む人の情に訴え同情を得ることができます。 では、どのようにすれば悲恋の物語になるか。簡単です。当事者たちではどうしようもできない、抗いようのない力、壁、障害物をもって恋路を塞げばいいのです。 では、もっとも効力の強い「壁」とはなにか。簡単です。同性――つまり性別なわけです。障害物として挙げるのならば「身分」「立場」「プライド」「時間」などなどたくさん考えられますが、もっとも高い壁は性別です。それは逆説的に考えてみれば一目瞭然です。恋し、愛し合った二人がもっとも幸せになれるときはいつか。おそらくそれは物理的に繋がりあえたときだと僕は思います。つまり性交渉ですね。 ではなぜ性交渉が愛し合った二人の至福のときなのか。理由はこうです。僕たち人間は肉体を持った生き物として生まれてきました。生物が本能的に行おうとすることは「生きること」と「子孫を残すこと」でしょう。そうした本能による行為は優先されるべき事柄であり、また同時にそれをこなした時に得られる見返りもその重要性を示しています(生きることはともかく、子孫を残す行為は肉体的な快感を得ますね。あれは種を滅ぼさないためのシステムなのでしょう)。そうしますと生き物がもっとも幸せを感じられるのはもっとも本能的で優先度の高い行いをしているときになるわけです。この場合、肉体的な見返りだけではなく、種を残すという本能に従った行為を実行しているという精神的充足感も性交渉が一番に思えます。 上の理論を仮に正しいとしたとき、そこに「身分」や「立場」といった壁がいかほどの障害物になりえるでしょうか。お互いが異性であるというだけで、いつか最高の幸せを得られるかもしれないのです。そこで「同性」という壁です。この壁があると、どれだけ多くの幸せを手に入れようとも最後の最高の幸せを手に入れることが絶対にできません。微塵の可能性すら存在しません。そういうことです。 つまり完全に、簡潔に「悲恋」を演出したければ「同性」という壁を設ければよい、ということなのです。かしましは一番分かりやすくも一番困難な壁を持った「百合」の形式に当てはめて純愛を表現したお話ということですね。 では肝心の「百合」についてですが、その性質は「悲恋」だと思います。理由は上述した内容がほとんどです。至上の幸せを手に入れることができないという宿命から、どれだけ時間をかけても、どれだけ努力を積み重ねても完全に恋が実ることは決してないのです。究極的には絶対に叶うことのない恋に身を賭していく女性たち。その姿に憐憫や憧れといった気持ちを抱くのでしょう。 さて、こんな感じで「百合」についてはお仕舞いです(ほとんどかしましを例に説明しましたが)。百合の性質が悲観的なのは上に述べたとおりですが、それでも知能の発達した人間ならではのプラトニックな関係など、彼女らはそれなりの幸せを見つけていきます。その幸せの大きさは絶対的に本能のものより小さいですが、そこらへんは当事者たちの考え方しだいです。それを本当に心の底から無上の幸せだと感じられるのなら、彼女らはたしかに――幸せなのでしょう。 PR 水曜日(17日)の朝、登校していると何やらもの凄い行列が目に入りました。あるチケットを購入する人たちのようで、僕はついついこう思ってしまいました。 これ、どこの開場前行列?(違う) 当たり前ですが最後尾を記した板は持っていませんでした(苦笑)。 あー、ちょっと二時間ばかりぼーっとしてました。 僕は昔から感情移入しやすいというか、面白いと思うとのめりこんでしまう性質でした。そのため思い入れのある話が終わると寂しくて仕方がありません。情けないことに泣いてしまうこともしばしばあります。 今回もそれが原因で思い入れのある作品が終わってしまったあとの寂寥感とか喪失感とか感動した読後感にもあてられて惚けていたわけです。これは僕の根本的な性質なので避けられないものだと思いますが、その影響があまりに強くて辛かったりします。 例えば今回の場合、ぼやけた思考の中で「もしかしたら彼らの世界というものは本当に存在していて、でも現実にはありえないから、異なる時空間のどこかにあるのかもしれない」などと無意識のうちに考えていたりします。おそらく、物語が終わって欲しくない、もっと続いて欲しい、という欲求がそういった妄想を生んでしまうのでしょう。 傍から見ればかなり危ない人ですが実際に精神的な面で大きなショックを受けているのでしょうね。自分のことながらあまりに神経が細くて困ったものです(苦笑)。 でもまあ数時間で元に戻れることを考えるとそれくらいの惚ける時間はあってもいいのかもしれません。惚けすぎてはいけませんけど、人なら誰しも夢に浸ることがあっていいはずです。 と、自己を正当化したところでおしまいです(汗)。感情を吐露したかったがために書いた記事で申し訳ありませんでした(平伏)。 ふと思ったのですが、ビデオを見返してみると次回予告でしつこくハルヒが次回の話数を間違えるのですね。それで気が付いたのですが、キョンのいう話数は単純に放映する順番で、ハルヒの言っている話数が本来のアニメ版ハルヒの正しい時系列なのではないのでしょうか。あれ、もしかして気付くの遅いですか?(汗) で、これからハルヒが放映終了するまでその内容と順番を記していこうと思います。 注:原作においても巻の番号がそのまま時系列に沿っているわけではありません(一巻は一学期の話、二巻は二学期の話、三巻は夏休みの話、という具合です。ただし一巻のみ一番最初の物語と考えてほぼ問題ありません)。 第一話「朝比奈ミクルの冒険 episode00」:ハルヒ予告なし。原作では二巻が映画製作の話であり、六巻に放映自体の話が納まっている。時期は原作一巻から半年後、体育祭の翌月で十一月中旬。TVでは番外編の扱いか。 第二話「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅰ」:ハルヒ予告では第一話に相当。原作一巻の冒頭。「憂鬱」の時期は四月上旬から五月下旬まで。 第三話「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅱ」:ハルヒ予告では第二話に相当。原作一巻に納められている内容。 第四話「涼宮ハルヒの退屈」:ハルヒ予告では第七話に相当。原作三巻に納められている話。時期は一巻から二週間後、六月の上旬にあたる。時間経過を考えると一巻の話が六話分放映される可能性あり。 第五話「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅲ」:ハルヒ予告では第三話に相当。原作一巻に納められている内容。 第六話「孤島症候群(前編)」:ハルヒ予告では第九話に相当。原作三巻に納められている話。時期は七月中旬、夏休み初日からの数日間。 第七話「ミステリックサイン」:ハルヒ予告では第八話に相当。原作三巻に納められている話。時期は七月上旬、おそらく二週目。 第八話「孤島症候群(前編)」:ハルヒ予告では第十話に相当。前編の続きで以下省略。 第九話「サムデイ イン ザ レイン」:ハルヒ予告では第十四話に相当。原作未登場ゆえにアニメオリジナルの話か。時期は十一月下旬。 第十話「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅳ」:ハルヒ予告では第四話に相当。原作一巻に納められている内容。 第十一話「射手座の日」:ハルヒ予告では第十三話に相当。原作五巻に納められている話。時期は十一月下旬にあたる。 第十二話「ライブアライブ」:ハルヒ予告でも第十二話に相当。原作六巻に納められている話。時期は十一月中旬、文化祭当日。 第十三話「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅴ」:ハルヒ予告では第五話に相当。原作一巻に納められている内容。 第十四話(最終話)「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅵ」:ハルヒ予告では第六話に相当。原作一巻に納められている内容。 (放映順番号)ハルヒ予告に従った正しい時系列 (第二話)「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅰ」四月上旬~五月下旬 ↓ (第三話)「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅱ」 ↓ (第五話)「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅲ」 ↓ (第十話)「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅳ」 ↓ (第十三話)「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅴ」 ↓ (第十四話)「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅵ」 ↓ (第四話)「涼宮ハルヒの退屈」六月上旬 ↓ (第七話)「ミステリックサイン」七月上旬、二週目 ↓ (第六話)「孤島症候群(前編)」七月中旬、夏休み初日からの数日間 ↓ (第八話)「孤島症候群(後編)」 ↓ (第一話)「朝比奈ミクルの冒険 episode00」十一月中旬、文化祭当日 ↓ (第十二話)「ライブアライブ」同上、文化祭当日 ↓ (第十一話)「射手座の日」十一月下旬、文化祭終了から約十日後 ↓ (第九話)「サムデイ イン ザ レイン」十一月下旬 5/13(土)次回以降の予想もしてみましょうか(苦笑)。 まず前提として夏休み中いっぱいの話までで終わる、と仮定する。それ以降の話を放映すると纏りが悪くなるというのが理由。これを元に各話を予想する。 残っている話は「笹の葉ラプソディ」、「エンドレスエイト」、第一巻の未放映内容(おそらく全六話、残り三話)となる。 「笹の葉ラプソディ」は時系列的に「涼宮ハルヒの退屈」と「ミステリックサイン」の合間に起こった話だが、ハルヒ予告に従うと放映することができない。だがここで「笹の葉ラプソディ」の話の性質を考えてみるとどの時間軸に挿入しても一応の納得を得ることが可能であり、また内容の重要性からして放映しないはずがないと予想。そうすると考えられるのは最終話の回に「第零話」として放映する可能性がある(朝比奈ミクルの冒険における「episode00」という言葉に捕われず、アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」としての「第零話」と捉える)。 以上を纏めると「孤島症候群(後編)」、「エンドレスエイト」、第一巻の未放映分(三話分)、最後に「笹の葉ラプソディ」を零話に繋げて終了、と予想できる(もしくは一巻のラストが最後にくる可能性も否定はできない)。 全話数は合計で十三話分になるが、内容量の問題で前後編をつくり全十四話になるかもしれない。 という感じです。あー疲れた(苦笑)。こんなことに一日を費やしてしまった(汗)。まあ、既刊をパラパラめくってあーだこーだ考えるのも楽しいから良いのですが。はてさて、予想は当たるのでしょうか(苦笑)。 5/23(火)時系列の表っぽいもの追加。見やすくなっていれば良いのですが。あ、あと未確認情報ですが全十四話らしいです。 5/26(金)最終回がオリジナル話だなんて、あー……全く予想が立たなくなりましたね(困)。時期は冬でハルヒ予告も最終回っぽいセリフですが、どうして冬の話を最後に持ってくるのでしょうか。そこが謎です(見れば分かるのかもしれませんね)。また「笹の葉ラプソディ」がどこに入るのかも分からなくなりました(汗)。最後にすると十五話目になりますし。う~ん、分からない……。 7/7(金)終わってしまいました。「笹の葉」も「エンドレス」も入っていませんでしたが最終回を見る限り「憂鬱」のラストで正しかった気もします(苦笑)。何というか、すごいアニメでした。ぜひ2クール目もやってほしいですねぇ……。 一つ目。どうも今年の時間割は変な組み方をしてしまったようで、水曜日の更新がほぼ不可能になってしまいました(汗)。やっぱり夜遅くに帰宅する曜日の次の日は一限を入れないほうがいいのかな。 二つ目。とある授業に出てきた単語「均田制」を「安田均」と読み違えました(汗)。「六門世界」シリーズを早く読みたいという潜在的欲求のせいでしょうか。 それに見間違えといえば少し前、電車内の吊り広告で「株トレード~」とかいうのを「妹トレード~」と読み違えたり(←ダメ人間)。本当に大丈夫かな自分、って思いましたよ、さすがに……。 三つ目。上の授業の時間中、暇だったので(興味がなかったので)つい妄想してしまいました。内容は「もしも僕が女の子だったら」。ドラえもんがいれば叶いますのに(もしもボックス懐かしい)。なんか「かしまし」などの影響もありそうですが、こんな妄想ばかりしていてはいけませんね、現実逃避なんて。 でも一応内容を書いてみます。自分がもしも女の子として生まれていたらどんな感じになっていたか、という空想です。自分の特徴を箇条書きにしてイメージしてみました。 外見の特徴 ・背が少し低い ・髪の毛は絶対伸ばすはず(カチューシャ装備or三つ編みにします) ・メガネもたまにかけますね ・水泳やらずに小柄な体格維持(水泳やると肩幅が広くなっちゃうんですよ(汗)) ・猫舌(すぐ火傷します) ・童顔(子供っぽくぽわ~っとしてるらしい) ・声はいいらしい(アニメ声と言われます(笑)) 内面の特徴 ・基本的に内向的で大人しい感じ ・人当たりはいいらしい ・たまに頑固 ・天然(何もない所で躓く&自動ドアに正面衝突経験アリ&etc) ・二面性がある(普段は独り&静か、たまに騒ぎたくなったり人が恋しくなったり) ざっとこんな感じなのですが、何といいますか……。これって萌えキャラ狙えませんか?(狙えません) 授業中にこんな妄想していたわけですね(汗)。やっぱり心のどこかで女の子として生まれたかったと思っているのでしょうか。でも男の子として生まれた時点でそこは諦めるしかないのですね。男性には男性の、女性には女性の長所と短所があるのでしょうから、男性としての人生を謳歌するべきなのでしょう。 いつか、もしも僕が心の底から愛せる女性と巡りあい、その人と共に人生を歩めるようになったとき、「自分が男性であること」を心の底から感謝できるようになるのでしょう。そんな日がいつか、来て欲しいものですねぇ……。 四つ目。大したことではないのですが僕は一度読み終えた本を読み返すということがあまり(というかほとんど)ないのですよね。やはり読む速度が遅いというのが最大の原因である気がします。 そんな僕ではありますが、安田均さん繋がりで(笑)「六門世界」はいつか読み直します。あれは数年に一冊しか出ませんからねぇ(汗)。あとは巻ごとに時系列が入り乱れている作品とかですね。いまパッと思いつくのは「涼宮ハルヒの憂鬱」でしょうか。これらの作品は最新刊の刊行ごとにもちろん読みますが、シリーズが完結したあとでもう一度じっくり読み直したいな、と思います。それだけです。ホント大したことないですね(苦笑)。 こんな感じで色々ありました(苦笑)。長くなってしまいましたが以上です。 |
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