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 根本的な意志というものは常に〝ありたい自分であろうとする心〟に根ざすものだと思った。
 一晩明けて昨日のことになってしまったけど、昨日は数々の悪意とわずかな善意を目の当たりにした。ああいうのを見て、人は根本的に利己主義なのだなぁと思った。
 人が行いを為すときは常に自分の益になることを目指す。それが他人に迷惑のかからない範囲で抑えようとするのは次回以降に得られる益が減少するからだ。
 ただほんの少し欲に溺れると悪を為すし、気まぐれで善も為すのが人間であって、それは単に不完全で揺らぎやすい生き物だからだと思う。

 そういうことを考えていると世界が絶望に満ちているようで厭世観に侵されるけどその絶望感は決して間違っているものではなく、常に己を基準に生きるべきだと感じた。ときに人を見習って自己を変革することも大切だけどやはり基本は自分なのだ。
 己が正しいと思う自分であり続ければそれでいいのだろう。そして自分で正しいと思う人間像が社会的に逸脱しすぎていれば抹消されるだけだから問題は何もない。最後に頼れるのは自分だけだし、極端に考えればこの世は下らないことが多すぎる。とかく惰弱で愚かで瑣末な日常に塗れた塵のような自分さえゴミのように思えてくるが、生まれたからには仕方ない。生きてやるしかない。それが生き物の在るべき姿なのだから。

 脱線した。要は軋轢を起こさないよう程ほどに自重して理不尽ながらも耐える生き方が現代でもっとも楽な生き方なのだろう。そんな世の中だからこそ自分を強く持ち、最終的に自分の力だけを信じなければいけないと思った。
 で、そこまで考えて愛とか正義とかすべて欺瞞に思えたにも関わらず、盲目的な信奉こそは限りなく愚かで限りなく純粋な行為なのかもしれないと思った。それはたとえば好きになった人間に己を滅して奉ずることで、愛の皮を被った自己満足に過ぎなくてもいっそ清々しいまでに幸せなのかもしれない。それはそれで人生を謳歌したことになるのかな、とか思って何か違う気もした。本人がよければそれでいいのだけれど。

 いろいろぐだぐだ考えてきて、けっきょく人なんて信用できないよな、とか人生なんて下らねー、とか。そんな答えは出てこない。生きることは生き物の義務だから下らなくても生きるべきであるし、他人は他人、すべて自分に都合よく動くならそれはもはや自分の移し身だ。信用しすぎる自分が愚かなのであって程ほどには信用すべきなのだ。自分にとっても相手にとっても円滑な関係が送れる。何よりそのほうが楽しくて楽だ。無意味につまらなく、殺伐とする必要はない。

 こんなことを昨日は考えていて(よほど精神的に荒れていたのか、普段なら絶対ありえない「俺」一人称で自嘲していた)一晩ぐっすり寝て起きたら清々しい気分になってた。人間なんてその程度のものなのだろう。深く考えることはない。思ったとおりに生きればいい。
 最後にこんなことを考えて揺らいでいる時点で自分は少なくとも善人ではないのだろう。完全な悪人でもないだろうし、中途半端で不完全なただの一人間でしかない。だからこそ、そうだな。大きな損失がでない程度に、他人に気まぐれの善行をしてみるのもいいかもしれない。冒頭で書いたように本物の善意か気まぐれか分からないけど善き行いをする人もいるから、この世の中も捨てたものじゃないことを感じるために自らが生き証人になるのも悪くないかもしれない。まあ、ただの自己満足に過ぎないのだけどね。
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